私が歯科医師となっていく間に、心に残る言葉がいくつもあります。今回はそれらを思い出して書いています。
1.医(い)は衣(い)なり
学生時代の保存修復学(むし虫のつめもの)の教授の言葉である。
「医は衣なり・・・。医は衣なりと申しますか・・・。」
人間はわかる時が来るまでは何度言われてもわかるものではないということを痛感させられる言葉の一つである。私も学生時代は「また、いなりかよ。稲荷寿司じゃあるまいし・・・。」と思っていた。後年入局した医局の教授も同じ考えだったようで、ジーパンやノーネクタイ、スニーカーなどを見つけたら大変だった。自分が患者だったら医者らしい安心できる人に診察してもらいたいということに考えが及ばない自意識過剰の医者(や学生)がなんと多いことか。
モヒカンで鼻ピアスのドクターに脈をとられたら高血圧と指摘される患者はふえてしまうだろう。
2.破壊者や墓(はか)医者になるな
同じく学生時代のエンド(根管治療)の教授の言葉である。
「諸君はハカイシャになるな。シカイシになりなさい。」と言って、破壊者、墓医者、歯科医者、歯科医師などの単語を黒板に並べた。
「思うに開業医の先生方の根管治療は80%が失敗症例だと思われます。
私の生涯治療成績は、再治療や難症例が多いことを考慮しても85%以上が成功しているでしょう。」
スライドで見た「ラバーダム防湿法」には驚いた。「たかが歯の治療でまるで手術のようだ。大げさではないか?」
これが大学3年生のときの率直な感想で、一般の方々と変わらない。今は・・・・・・ご体験あれ。
3.あの人はかわいそうなんだ
私が入局した講座の教授の言葉である。彼は学術方面以外でも多才であったため診療室に出られる時間は滅多になかった。
本来新卒から2年目が担当であった診療助手に研修医を修了した私が立候補し、当然のように(??)そのチームのリーダーとなった。
研修医のときに教授診療チームの改善策を考え、それを実行したのである。けれども自分達に可能な人数を予約しても教授は自分が出るつもりで予約表に追加してしまう。若手4.5人のチームではとても予定通りに進まなくなってしまうのが常であった。
そこで、早朝に病院に行ってカルテをチェック。勧進帳のごとくその日の治療計画を立て、教授秘書が教授をつかまえるやいなや教授室でそれを読み上げた。OKなら「よろしく。」で終わり。手順が違う場合はそれを指示してもらった。
それから外来に戻り、外来衛生士の了解の上で30分前からスタートし、空いている治療ユニットはすべて借りて教授チームの診療をすすめていった。予定通りに(?)治療は遅れていく。頃合いを見ながら若手を一人づつ昼食に行かせ、決まりより数時間遅れて治療を終了する日常だった。
多くのスタッフは現状を肯定してくれて、後かたずけさえきちんとやればペナルティはなかった。
17時から18時頃に教授は戻ってくることが多く、「佐藤、昼飯まだだろう?僕もまだだからいっしょに行こう。」ということになる。
薄給の私ではとても入れない「グリルセインツ」で教授チームの症例検討会が行われた。彼は多忙であっても、難しい治療の方をちゃんと把握していた。唇類口蓋裂や口腔腫瘍切術後、顔面領域の外傷の方などである。
「あの人はかわいそうなんだ・・・。」で始まるその患者さんの過去の闘病歴。胸が熱くなり、「なんとか力になりたい」そう思わずにはいられなかった。その後私は図書館や技工室に戻り、セブン・イレブン(7時に出て、23時すぎに終電で帰宅)の日々は続いた。難しい治療で費用がかさみそうなときには、教授は研究費の申請用紙を出してくれた。声には出さなくても「治療費は気にせず、ベストをつくせ!」と聞こえた。「佐藤はもう何でもできるから、もう僕が出なくてもいいだろう?」とか「若い(モデルやタレントの)お嬢さんだからおじさんより佐藤の方がいいだろう?難しかったら手伝うから。」
後からわかったことだが、私が型取りをした印象や設計した模型はすべて技工士(もちろんそれも全員教官クラス)から、教授の手許に運ばれ、作って良いかどうかの指示をあおいでいたのだ!!それらを見ての言葉だった。
私にとって最高の上司だった。「僕の代わりに身内の治療をやってくれよ。」・・彼の出身が南雪谷だったため、私はこの地で開業することとなったのである。
4.日本一の歯科医師になれ!
私の心の師匠の言葉である。彼は40過ぎの若さで佐藤・三木両首相の主治医であったという。
私が5年生の頃医科歯科大学の非常勤講師として、医療訴訟の講義をしてくれた。講義最後の言葉にしびれて彼の治療を見学したいとボスに直訴したところ、ボスは彼に直接電話をしてくれた。そのおかげで週に1日、彼の診療の助手をさせてもらえることになった。65才の彼は1人1時間、1日7人、週5日きっちりと診療していた。予約表には武見太郎の再来を思わせるような有名な患者さん達。ただし、やっている治療は医科歯科大学で研修医に教えるようなもので、けっして特殊な機械や手術を伴うものではなかった。
それを一切手抜きせず(なんという精神力!)時間内で確実にクリアしていった。一番意外だったのは、患者さんをリラックスさせるために会話を重視していたこと。
「患者さんがイスの上で遊び始めるまでは歯科医は手を出してはいけない。」という言葉通りであった。
患者さんを一人終えるとせまい院長室に戻って一服。そのときに心に残る話をしてくれた。減菌して加圧根充をしたときは「びっくりしてたな。後輩の砂田(根管治療の教授)に習ったんだ。今はこうやる方が成績がいいらしいからな。あんたたちは1時間じゃ終いまでできないだろう?」(いくつになっても勉強とは本当にすごい。)
昔の首相の家族が帰ると「総理がいらっしゃると(交通規制で)近所の人が迷惑するので私の方がうかがってもよろしいですか?」と言ったんだよ。
そしたら本当に行ってもいいことになったんだ。任期も終わり頃にはとてもお疲れでね。
帰りに「靴がきつい、きつい」と言うからよく見たらズボンがはさまっているのにも気づかない程だったんだよ
(歴史小説に出てきそうな話ですね。すごい!)
ドクターショッピングをしている患者が帰ると「儲けるだけが歯医者じゃねえだろう?
誰かが面倒見てやんなきゃいけない。」(あちこちの教授を渡り歩いているこの人は後年私のところにもきましたよ。)
超高級料亭の主人が帰ると
「さすがだな、金額言っても顔色一つ変えやしない。もっとふっかけてやりゃいいんだろうが俺にはできねえからな。」
(おっしゃる通りです。たいした実績がなくても銀座というだけで先生の倍以上の歯医者がゴロゴロいますよ。)
「武見さんは本心からインフォームドコンセントって思ってたわけじゃねえな。最初に来たとき、ポンと封筒を置いて『300万入っています。足りなくなったら言って下さい。』治療を説明しようとすると『お任せします。』と目を閉じちまう。医局旅行の話を聞きつけると『おこずかいです。』と大金を置いてっちまう。口数少ない古風な人だったね。」
(武見太郎さんは世界医師会会長という立場だったからインフォームドコンセント宣言を採択しただけだったんですね。)
またあるときは「別にやってることがすごいわけじゃない。見ててわかるだろう?でも、こうなるまでが大変なんだ。そこをよっく見てろ!」(天才とは努力し続ける才能:羽生善治とは先生のことですよ。)
最後の講義での彼の話とはこうです。
「あんたたちだって日本一の歯医者になれる。『この先生は若くて腕はまだまだなんだけど私の為に一生懸命治療をやっている姿は日本一だ』患者さんにそう思われる歯科医師に明日からなって下さい。私の言ってることが本当か確かめたかったらいつでも見にいらっしゃい。」